日記
矯正の恩恵とミザリーの母性、あるいは推しへの告白。
2年前に歯科矯正を終え、現在は年に一度の定期検診に通っている。
自分への投資として、心から「やって良かった」と思えるのがこの歯科矯正だ。
噛み合わせが改善されたことで咀嚼の質が変わったのか、フェイスラインはほっそりし、高校生の頃から悩みだったほうれい線も劇的に薄くなった。
30歳を目前にして、若返る実感を得られるとは思いもしなかったのでかなり嬉しい。
矯正を迷っている人には「借金してでもやる価値がある」と伝えたいほど、素晴らしい自己投資だ。
さて、一年ぶりに訪れた歯科医院は、その様相がだいぶ変わっていた。
かつての可愛らしい受付嬢たちの姿はなく、歯科助手の方が受付を兼任している。
広い院内を、先生と助手二人、計三名で回しているようだ。
フロアに流れていた優しいBGMも消え、室内は静まり返っている。
歯科助手の女性は初対面だったが、その佇まいは映画『ミザリー』のアニーそのものだった。
ハキハキとした振る舞いには好感が持てるのだが、医療器具を準備する背中越しに、どうしてもあの『アニー』の影がよぎってしまう。
先生が私の上の歯の型取りをするため、ピンク色のグニャグニャした印象材(アルジネート)を口に差し込む。
「少しこれを持ってて」と助手さんに指示を残し、先生は隣の診察室へ消えた。
無音の室内。上空から視線を感じる。
人間の視野というのは、眼球を動かさずともある程度周囲を捉えるものだ。
彼女はじっと私の顔を覗き込んでいた。
これじゃあ映画『ミザリー』のvrじゃねぇか、と思ったのがいけなかった。
たまり続ける唾液を飲み込もうとした瞬間、思わず「おぷっ」と変な声が出てしまった。
その音に反応した彼女は、咄嗟に心配そうな表情を浮かべる。
その顔をみた私は、ああ、なんて優しい人なんだ。さっきまで「アニーに似ていて怖い」なんて思ってごめんなさい。
己の心の醜さを猛烈に反省しながら、私の右上半身にぴったりと寄り添う彼女の腹部の体温を感じた。
あたたかい。
『闇金ウシジマくん』の加納は熟女好きとして有名だが、今なら彼の気持ちが痛いほどわかる。
この包み込むような肉体と、世話を焼いてくれる時の母性。
加納は、いや、人類は皆マザコンなのだ。特に娘という生き物は、皆マザコンに違いない。
歯科医院を出て、代々木八幡の近所まで歩いて戻る。
昨夜から「コーヒーを飲みながら本を読む」と決めていたので、そのまま推しのいるカフェへ向かった。
まだ一度しか顔を合わせていないので覚えられていないだろうと思ったが、彼女は例の「モナーのしおり」を覚えていてくれ、声をかけてくれた。
あまりの嬉しさに「本当に可愛いです!初めて会った時から、なんて可愛い顔をしているんだろうと思っていました。私の推しです!」とニヤケながら言ってしまった。
告白を終えた直後の高校生男子のような、晴れ晴れとした爽快感が自分でもおかしくて、別のニヤケがやってきた。
帰宅後、謎の腹痛に襲われ「トイレの神様、ごめんなさい」と心の中で謝罪を繰り返したが、痛みは全く引かない。
おそらく空腹の胃にアイスコーヒーを流し込んだのが原因だろう。
ようやく腹痛も治まり、女の子たちがそれぞれの推しを愛でるアニメを観ながら、「由比の桜えび」の刺し子に針を進めた。
推しのいる空間での読書、アニメを観ながらの縫い物。
ああ、なんて幸せな日なんだろう。


