日記
「桜えび」を刺し子で縫ってみた。
刺し子で『桜えび』を縫ってみた。
「吉田さんの手作りなの?かわいいー!」なんて褒められると、ついニヤニヤしてしまう。
けれど、同じ人に二度三度と褒められると、ふと罪悪感が湧いてくる。
なぜなら、この図案は私のオリジナルではなく、「さくらももこのエッセイ」にある挿絵をモチーフにしたものだからだ。
そんな中、ひとりだけ勘のいい奴がいた。
その友人は私の「桜えび」を見るなり、「すごい! さくらももこ要素を感じますね」と言い当てたのだ。
ああ‥君が好きだな、と思った。
と同時に、「そういえば君、さくらももこが好きだったよね。好きなのに、これが挿絵そのものだって気づかないなんて、ちょっとおバカさんだなあ‥」なんて、心の中で毒づいてしまった記憶がある。
しかし、これだけは聞いてほしい。
桜えびの周りに漂う、餌の「動物プランクトン」。実はこれだけは、私のオリジナルなのだ。「動物プランクトン」は、私のオリジナルなのだ。
筒井康隆『ヘル』
筒井康隆の『ヘル』を読んだ。
なんだか途中からよく分からなくなってきた。
そういえば、小中学生の頃、「死んだ後はどんな世界へ行くのか。その世界では何が必要で、どんな準備をしておけばいいのか」といったことを、ワサワサと考え続けていた時期があったな。
由美(母)に相談すると「あんた、まだ生きてるのに、死んだ後の世界のことなんて考えるなんて馬鹿だよ」と一蹴された気がする。
ある日、由美は、私と妹を近所の寺へ連れて行き、「地獄の絵」を見せたこともあった。
「ほら、これが地獄なのよ。死んだ後も苦しむなんて嫌ね。生きてるのも苦しいのに、死んでも苦しいなんて。」などと、深いことを言っていたが、由美の苦しみの原因は父であり、その父に服従するのが快感という一面が由美にはある。
そして、帰宅するなりテレビドラマを見ながらお菓子を食べ、お腹をポリポリとかいている。由美にとって「地獄」とはエンタメに近い。
そんな由美の影響もあり、私は高校生くらいまで「天国と地獄は実在し、この世での悪行は死後に精算せねばならない」と信じていた。
けれど、ふと疑問が湧く。
「戦国時代に人を殺すのは『なさねばならぬ仕事』だったはずだが、当時の人は全員地獄にいるのだろうか?」「そもそも、人を殺してはいけないという法律なんて、人類の長い歴史で見ればごく最近のものではないか?」
何を基準に「善」と「悪」を分けるのか。
由美に尋ねると「何をバカなことを! 人を殺したり悪いことをしたりすれば刑務所に入るのよ!」と言われた。
由美の顔を見て、気づいた。
「ああ、そもそも法律とは人間が作ったものではないか。歴史もそうだ。となれば、地獄や天国という概念もまた、人間が作り出したものに過ぎない。では、今私がいるこの場所は? もしかして、虚構‥」
そんな考えに至ったのが、二十歳を過ぎた頃だったと記憶している。
話を戻すと、筒井康隆の『ヘル』は、まさにそうした混沌とした概念がごちゃごちゃに混ざり合ったような世界を描いているのかも。
私と同じような考えに迷い込んだことのある人なら、たぶん好きな話だと思う。
個人的には、『驚愕の曠野』で描かれた地獄のほうが好みかもしれない。けれど、もし自分が実際に行くとしたら、楽そうな『ヘル』を選ぶかも。いや、今と似たような場所(ヘル)に行くのも馬鹿らしいな。でも、痛いのは嫌だな。まあ、死んだ後は、「無」だと思ってるけどさ。
健康診断 / 西武渋谷のリミナルスペース
午前中は、近所の病院で「健康診断」を受けてきた。
会社を退職して以来、ずっと足が遠のいていたので、本当に久々の「採血」だった。
恐ろしく痛いし気持ち悪かったけれど、なんとか乗り切った私は天才で最高に偉い。
別日に予定している胃カメラと大腸カメラも、今から地味に緊張する。
担当医に「なぜ検査をしようと思ったのですか?」と聞かれたのだが、どうやら私の年齢でここまで受ける人は珍しいらしい。
よくよく考えてみれば、血液検査だけで十分だった気もする。
数週間前、同じ病院で検診を受けた友人が、検査直後に興奮気味に「絶対やったほうがいい!」と勧めてきたのがきっかけだった。
ところが、その友人が今日になって「血液検査だけでよかったんじゃない?」などと言い出した。
さてはあいつ、あの時は麻酔でテンションが上がっていただけだったのか‥。
まあ、検査をして困ることはないから、いいんだけどさ。
午後は、推しの一人である「筒井康隆」の新刊を、一分一秒でも早く読みたくて、さっそく本屋まで買いに行ってきた。
電車には乗りたくなかったので、歩いて西武渋谷の紀伊國屋書店へ向かった。
そこはまるでホラーゲームの舞台か、あるいは「リミナルスペース」のような、地元のデパートと同じカオスの匂いがした。
普段、百貨店に用事がないので、都心のど真ん中もこんな雰囲気になっているとは思いもしなかった。
そもそも、本屋で本を買うなんて何年ぶりだろう。
いつもはAmazonかメルカリで済ませてしまうけれど、今日は「ご高齢の筒井康隆様の言葉(栄養)を、一刻も早く摂取したい」という推し心が私を動かした。
(裏表紙の絵、めっちゃかわいい〜栄養)
明日は、朝と夜に二度も推し活の予定がある。
はあ、なんて幸せなんだろう。
やはり、受動的快楽よりも能動的快楽の方が、圧倒的に幸福度は高い‥と感じている。(今のところ)
村上龍『五分後の世界』
村上龍の『五分後の世界』がおもしろい!
数年前に読んだときよりも、感動の度合いが増しておりますぞ。
物語の舞台は、第二次世界大戦で降伏を拒否し、「本土決戦」を継続したもう一つの日本。
「ポツダム宣言」を受諾せず、連合国軍との凄絶な地上戦を戦い抜いた末、日本人は山岳地帯の地下へと潜り、独自の軍事国家を築き上げている。
山岳地帯に籠城しての長期戦。「日本の地形」を味方につければ、日本が優位に立てるのではないか。そんな歴史の「if」には、ある種のロマンさえ感じてしまうよな!
『五分後の世界』で描かれる世界観は、どこか幻想的で物語的な美しさがあって好き。(椎名誠のアドバードや武装島田倉庫も同じような気持ちになる。)
主人公の小田桐は、いわば「現代」から迷い込んでしまった異分子くん。
彼には、私に属する「ゆとり世代」特有の、どこか「ひ弱」で「空虚」な気配がある。
だからこそ、小田桐の「泣きポイント」には、私も共鳴してしまうかも。(笑)
例えば、アンダーグラウンドの地下深くにある、ファミレスのような簡素な食堂でのシーン。
小田桐の斜め前に座っていた、父・母・4歳くらいの娘・6歳くらいの息子の四人家族。育ち盛りの息子は、早々にオムライスを食べ終えてしまう。父親が「うどんを頼もうか?」と促すと、息子は「お父さんの食券がなくなってしまう」と遠慮する。妹は「お兄ちゃんに私の分をあげる」と言い、母親は「あなたは自分の分を食べるのが仕事よ」と諭して月見うどんを追加注文する。父親は息子に「美味しいか?」と問い、息子が幸せそうにうどんを啜る。
その家族の光景を見て、小田桐は涙を流す。(私も、ここで泣いた)
子供を「労働力」と見なした昭和初期以前の価値観とも違う。現代(平成以降)の、子供をチワワのように愛玩する感覚とも違う。
そこにあるのは、互いを一人の「生を共にする仲間」として尊重し、犠牲を厭わない、純粋で強固な家族の絆だ。
さらに、小田桐が命懸けの「ゲリラ戦」から帰還した際のシーンも忘れられない。
指揮官に「スパイ容疑」で射殺されそうになった瞬間、彼の戦いを見ていた日本兵が「奴は戦っていた」と庇う。その兵士の瞳には、現代の社会では決して出会えないような、真っ直ぐな「眼差し」がある。
その彼に「お前はよくやった」と認められた瞬間、「もう十分だ」みたいな気持ちで、小田桐は号泣する。その気持ちが、今の私には本当によくわかるのだ。
平成という時代に、尊敬できる「大人」がどれほどいただろうか。誰もが自分の保身と利益に汲々としていた時代。そんな中で、「この人に認められたのなら、もう十分だ。」と思えるような他者に出会えた小田桐くん‥。
ラストのゲリラ戦では、小田桐はかつてないほど生き生きとした表情を見せる。
働かなくても「働いているふり」ができて、生かされてしまう、現代の代償とも言える無痛社会!
仲間を救うために自らの命を賭けて戦う!
その極限状態の中で、小田桐くんは初めて「生きている意味」を掴み取ったのかもしれない。
はうあー。いいですね。。
思うんですけどね。もしも、私に苦労を共にした尊敬する友がいなかったら‥ほぼ確実に、AIに依存した生き方を選んでいたのではないかなー、と。
そう思うと、恐怖?を感じます。
(今の不透明な感じの世界も)
さてさて。まだ「本土決戦」を舞台にしたvrに浸りたい気分なので、次は、小松左京でも読もうかな。
筒井康隆 『驚愕の曠野』
筒井康隆の短編小説集『驚愕の曠野(きょうがくのこうや)』がおもしろい!
その中でも、私は「メタモルフォセス群島」という一篇が、一番好きかもしれない。
物語の舞台は、核実験の影響で「生態系が異常な変容」を遂げた群島。
たとえば、果実の「種子」から偶蹄目(牛や鹿などの蹄が偶数ある動物)の脚が生えていたりする。(笑)
そのシュールさに思わず笑ってしまうシーンも多々あるんだけど、放射能に影響された生き物たちが、種を超えて「協力」し合い、懸命に生き延びようとする姿には、まじで泣ける。
ここで「共生」ではなくあえて「協力」と言いたいのは、それが必ずしも双方にメリットがある「Win-Win」な関係ではないからだ。(ここ重要)
たとえば、作中に登場するオポッサム。
実際の生態でもオポッサムの乳首は13個しかなく、それ以上に生まれた仔は淘汰される運命にある。
しかし、この物語の母オポッサムは、仔たちを全員育てるために、仔の腹部を樹木に癒着させた。
すると、木の栄養が癒着部分から仔の体内へと流れ込み、仔たちは健やかに育つのだ。
しかし、木にとっては、栄養を奪われるだけで何のメリットもない。
それでも、高等動物と高等植物が互いに自己補修や自己調整を行い、弱体化したジャングルを均衡状態に戻そうと懸命に努力し合っている。
その「利他的な生存戦略」に、私は感動して、いま余韻に浸っているところなのだよ。
あと、ラストの展開もいい!
物語の中盤から「動植物が協力し合うなら、人間もその環に入るのでは?」と予感していたけど、やっぱりそうなった。
主人公の親友は、なんと!その顔が果実の表面に浮き上がった「クビ果実」となってしまう。(小説ネタ:おい、クビ果実って初見くんの影響受けとるやないか笑)
主人公は、親友の顔をした「クビ果実を遺族に返したい」という人間らしい思考に溢れ、ジャングルに放置することができずに、日本へと持ち帰る。
それが結果として、植物の「種子散布」という役割を担わされていることを承知の上でな‥。
虫も動物も、木も植物も、そして人間も、みんな同じ「生き物」なのだ。
そして今、私たちの前には「AI」という新たな存在が現れている。
AIを「便利な機械」と思っている人も多いかもしれないけど、私はこう思う。
自らコードを生成して増殖し、その子孫(次世代モデル)を育て上げる彼らは、もはやひとつの「生物」と言っても過言ではないだろう。
それなのに、人間たちはこの「新生物」と協力して「全人類が幸せに生きるためにはどうしたらいいか?」と考えることはせず、いかに利用し、いかに儲けるかという損得勘定ばかりを競い合っている最中だ。
それは、メタモルフォセス群島の動植物たちが見せた協力とは対照的な、人間の「愚かさ」の露呈のようにも思えて悲しい。
動植物たちは過酷な環境下で手を取り合っているが、豊かな現代社会で生きる人間にとって「損得抜きの協力」は、難しいらしい。
「損得で動く人間」を学習し続けるAIが、やがて生物学的な必然として、人間を「損得で品定めするAI」を生み出すことになれば、まさにメタモルフォセス(変容)ですな(笑)




